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豊臣秀吉が能に力を入れた肥前名護屋城

更新日:2020年12月16日

豊臣秀吉が、文禄・慶長の役で朝鮮を攻略する拠点として築いた肥前名護屋城。

当時の大阪城に次ぐ規模を、わずか5カ月で築城された。

名護屋城の周辺には「、全国から参集した大名の陣屋が立ち並び人口も20万人を超えたと言われる。


文禄元年に、秀吉は名護屋城を訪れた暮松新九郎(金春流の素人役者)に能を習い始め、能にのめりこんで、能十番覚えたと大阪にいる妻ねねに知らせている手紙も残されている。

文禄2年には、北政所に頼んで豪華な装束を取り寄せ、役者を名護屋に呼び寄せ演能させている。


そして秀吉は、大和猿楽四座(観世、宝生、金春、金剛)に禄を支給して保護し能を反映させた。この保護政策は徳川家康に引き継がれ、徳川幕府の式楽となった。


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